思考を止めて本当の私
思考を止めて本当の私に還る。
思考を止めることができるなら、いわゆる無心の状態になりますね。
無心、無念無想といわれる状態は、覚りの境地と同じと思います。
なにも考えないようにすること。
思考を止めようとすること。
これは、同じようで、微妙に違うんですね。
ただ、同じだと考えても、ほとんど問題はないと思いますけど。
じゃあ、何でそんなこと書くのか??。
これが思考ですね。
そう思う思考を止めようとすること。
思考を止めようとするのは、すでに思考しているときです。
思考に気づいたら、その思考を止めようとします。
思考を止めるための観念を繰り返したりすることですね。
「潜在意識は完璧だから、私はなにも考えない・・・」
「思考を止めると、完璧な潜在意識が完璧な世界を実現する」
等の、考えを、繰り返し考えて、その他の思考を止めるんですね。
ですが、日常生活を続けていると、思考を止めることなんてできないと思う人が多いと思います。
それは、そのような生活習慣に身を置いているということなんですね。
何を言っているかというと、私は去年、テレビも携帯も無く、外部からの刺激がほとんど無い状況に成ったときがありました。
そのとき、こう思ったんです。
外からの情報がないなら、自分の内側に向かおうってね。
瞑想的な状態でいつもいてみよう、という感じです。
そのときの心境は、なかなかのものでした。
思いがけず、言葉も通じない、テレビも携帯もない、まったく知らない世界みたいに。
極端な状況に投げ込まれた。
その状況に対する不満と、そうした人への不満と怒り。
そればかりが心に渦巻く。心を占領していたんです。
あの手この手で、思考を止めるための思考を繰り返していたんです。
「この不満は誰が考えている?」(私)
「私は誰?」・・・・・・。
「この思考はどこから起きる?」・・・・。(私)
「私は誰?」「私はどこから生まれる?」
「思考を止めると完璧な潜在意識が完璧な現実を実現する」
等々、思いつくことは全部やってました。
で、そのときは、心が静まったり、不満と怒りに巻き込まれたりを繰り返していました。
私の経験でいえば、強烈な体験、激痛や激怒等、強い感情をともなう経験をしているときは、その他のことは、どうでも良いレベルでしか考えられないということです。
つまりね、日常のたわいないことは、どうでも良いことでしかないんです。
そう思うと、そのことから意識を放すのは簡単になってくるんです。
意識が離れると、そのことに興味が無くなって、それに近づかなくなります。
そうなってくると、そのことに対する思考もほとんど浮かんでこなくなります。
なにも考えないようにするとは、それに近づかない、触れないようにすることも含まれます。
これは、言葉の問題ですけどね。
どちらにしても、思考を止めようとしても、次から次にそれに関する思考が生まれてくるなら、そのことから離れる意識が必要かもしれません。
そんな思考も消してしまうんですけど・・・。
「完璧な潜在意識が全部行なう」
と、考えて、その他の思考を止めようとする。
「完璧な潜在意識が最善の結果を実現する」
と、考えて、そのことに関する思考を止めようとする。
こんな感じの念想を、心が楽になるまで繰り返し続ける。
「思考を止めると完璧な世界が実現する」
「思考を止めると最善の結果が実現する」
「思考を止めると本当の幸福が実現する」
等々、思考を止めるための観念を繰り返す。
で、特定の問題に対して、興味が薄れてくれば、そのまま意識を放すみたいな感じで。
でも、気づいたら考えてた・・・。
みたいなときは、考えている自分を許しましょうね。
思考は悪。みたいに考えるのは思考ですから・・・・。
これでは、出口のない迷路にはまってしまいますね。
「へ~、そんなこと考えてるんだ。」
みたいに、自分の思考を第三者的に離れてみる。
「思考を止めると、完璧な潜在意識が完璧な世界を現すんですよ」
「完璧な潜在意識の世界が現れるのを待ちましょう」
のように、自分を説得してみる。
うまく行くときは、スーッと心が楽になるのを感じると思います。
いつも同じやり方でうまく行くともいえませんが、やらなければ始まりませんから。
何を考えているときも、その思考を止めようとする。
考えていいのは、思考を止めることだけ。
「思考を止めると、完璧な潜在意識が目覚める」
というような観念を繰り返してみる。
どんなことも、完璧な潜在意識に丸投げしていることが最善の道だからです。
これ、本当のことです。
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